徒労にかける   (ルカ5章1〜11)     山本俊正

お招きをいただきありがとうございます。ご一緒に聖日の礼拝を守ることができ、本当にうれしく思います。東京台湾教会で説教をさせていただくのは、今回が3回目で、これも大変光栄に感じております。

随分前のことになりますが、沖縄の作家で芥川賞を受賞した又吉栄喜さんが朝日新聞に「インドの境界」というエッセイを書いていました。インドの「境界」というのはキリスト教会の教会ではなく国と国の境などを表現する境界のことです。このエッセイは又吉さんがインドの田舎を訪問したときの印象を書いたものなのですが、又吉さんがインドの田舎に行ってまず驚いたのは、インドの田舎道では人間や自動車だけでなく、豚や鶏、アヒルや犬などが道を分かち合って仲良く通行していることでした。そして目を田舎道のかたわらの民家に転じると、家の真ん中に土間があり、土間は庭につながり、庭と道の境もなく畑につながり、畑は山に、山は大きな空に連なり、空は自分を越えた神に連なっているような感じがした、と書いていました。
確かに、日本のように道という道はガードレールに区切られ、家という家が壁で仕切られているところにすんでいると、又吉さんの見たインドの田舎道は驚きの体験になると思います。私たちは日常いつも見ているものに影響されますから、ガードレールや壁で仕切られている風景は私たちの心のあり方にも影響し、知らず知らずのうちに、他者と自分を遮断する心の境界線を作っているかもしれません。、
ご存知のように、聖書の使徒言行録の始めの所を読んでいきますと、初代教会のクリスチャンたちが「誰一人、その持ちものを自分のものだと主張することなく、いっさいのものをわかちあっていた」ことが伝えられています。初代教会の人たちは、自分の持っているパンを礼拝の前にさき、共にそれをわかちあってから礼拝をしていたことが知られています。勿論、同じ使徒言行録の中に出てくる、アナニアとサッピラの物語の様に「分かちあう」ことにも限界があり、欺瞞や偽善が「分かち合い」につきものだったのは今と変わらないようです。しかし、それでも、現在の日本の都市生活の様に、「自分のものは自分のもの」「他人のものも、うまくいけば自分のもの」といった、境界線を前提にした人間関係は、基本的にアジアの伝統的な文化ではないと思います。
私は、学生の頃、インドネシアで1年間生活したことがありますが、当時、道ばたで友人、知人に会うときの挨拶は、「もう、ご飯食べた?」(Sudah Makan)とか「お風呂に入った、シャワーを浴びた」(Sudah Mandi)とか、「これから何処に行くの」(Mau Kemana)いう問いかけの挨拶が普通でした。最初は何と余計なお世話の挨拶をするのかと、思いました。しかし、よく考えて見ると、相手がちゃんと食べているか、お風呂に入っているか、危険なところに行かないか、というの大切なことで、食べていないなら、自分の家で食べさてあげる、という意味も含めて、相手を気遣う、相手を思いやる文化なのだ、ということが分かりました。一年間インドネシアに滞在した時、アジアの文化、社会では、私たちが無駄なこと、余計なお世話、と感じることが、実は大切なことであることを学びました。

話は変わりますが、私の好きな小説の一つに、遠藤周作の書いた、「おばかさん」という物語があります。お読みになった方もあるかと思いますが、主人公は、ガストンというフランス人で、フランスから日本にやって来て、日本の家庭に滞在します。ガストンは、町を歩いていると、たくさんの野良犬がいることに気づかされ、可哀想に思い、家に野良犬をたくさん連れてきては、日本の家族を驚かせます。また、ガストンの善意は、挙げ句の果てに、遠藤と名乗る殺し屋と、友達になり、危険を顧みずに、この殺し屋、遠藤を良い人間にしようと、一生懸命努力いたします。彼の行動は、普通の常識では考えられない行動と映り、周りの人間からは、非常識なことをする、「お馬鹿さん」と呼ばれるようになるのです。実は、この小説「おばかさん」は、ドフトエフスキーの書いた「白痴」という小説の主題をモデルにしており、もし、イエスがこの現代にやって来たら、「お馬鹿さん」と呼ばれることを想定しているわけです。実際、イエスだけでなく、旧約聖書にででくる、予言者や、現代でも神の召命を受けた人々というのは、あまり常識的な人は少なく、どちらかというと、八方破れで、非常識な人が多いのです。例えばノアです。洪水がくることを知らされ、地上に巨大な箱船を造り始めます。周りの人たちは、どう思ったでしょうか。何と被害妄想な、非常識な、ノアと思ったのではないでしょうか。「おばかさん」と呼ばれていたかもしれません。モーセにしても同じです。エジプトで奴隷になっている多くの人を救い出すことを、命じられるのです。モーセがそれを引き受けることなど、他人から見れば、とんでもない、愚の骨頂ではないでしょうか。「そんなことを、一人でできるわけがない」と考えるのが常識的です。しかし、ノアもモーセも、神が共に居てくださるという、信仰を頼りに、この非常識を受け入れ、実行したのです。
私自身も、自慢にはならないのですが、この間、かなり他の人から見たら、無駄、徒労、または非常識と思われることに参加しています。例えば、3年以上前に日本の自衛隊がイラクに派兵されてから、エキュメニカルな働きとして、カトリック教会や仏教者と協力して、イラクから自衛隊の撤退を求める署名活動をしています。現在は、陸上自衛隊は撤退しましたが、航空自衛隊が依然としてイラクで活動を続けています。私たちの活動の根拠は極めて単純で、イラクの人々のの「いのち」も自衛隊員の「いのち」も、失われてはならないという理由です。私たちは、毎月、内閣府に出向き、首相宛の署名を届けてきました。その月に集まった署名を届けた後、内閣府のお役人と30分ほど質疑応答の面談をします。その後、議員会館の会議室を借りて署名提出報告会をし、それが終わると首相官邸前に行き、祈りの会をするのです。キリスト者が祈り、仏教者がお題目を唱えます。とても静かで、非暴力的な祈りの会をするのです。国会議員で、報告会や祈りの会に飛び入りで参加して、挨拶をしてくれる人もいます。署名も毎月、必ず集まり、現在、総6万筆ほどの署名を届けました。私たちは、この署名活動と祈りの会を続けることが、とても大切だと思っています。しかし、道を通る歩行者の人や、国会を警備しているお巡りさんにとっては、「あの、宗教者の群れはは、何と無駄なことに、毎月エネルギーを使っているのだろう、どうせ何も変わらないし、徒労におわるのにーーー」と思っているかもしれません。まあ中には、顔見知りになった内閣府のお役人や、警察官から、「よく続きますね、ご苦労様です」と声をかけられる時もありますが、多くの人は、大海の水をスプーンでくみ出すような、無駄な働きと考えているのではないでしょうか。私たちは何かあると、例えば、憲法を改訂するための手続き法である、国民投票法案が採決された時も、多くの市民団体、宗教者が国会に集まり、「祈りの会」をしたり、抗議集会をしたりしましたが、これも、関心の無い人から見れば、時間の無駄遣いと思えるかもしれません。

先ほど読んでいただいた、ルカによる福音書は、イエス様が弟子たちを招く、召命物語が描かれていますが、あまり常識的な物語とは言えません。この物語はマタイの4章にも同様な物語として書かれていますが、マタイでは、「イエスがガリラヤの海辺を歩いておられた」という記述で始まります。ガリラヤというところは、辺境の地で、人々から余り注目されていない場所でした。イエスの12弟子の大半は、このガリラヤの漁師で、肩書きもなく、学歴もなく、地位もない人たちでした。マタイの福音書では、弟子となったペテロとアンデレは、イエスと最初に出会ったのが、このガリラヤであることを記しています。また、ヤコブとヨハネも、イエスに招かれると、自分の船と家族をおいて、まるで家出でもするように、すぐにイエスに従ったと、書かれています。これもかなり非常識なことです。
今日のテキストのルカの5章に至っては、シモン・ペテロとアンデレの非常識な行動が、さらに詳しく書かれています。聖書の様々な物語を読むときに、時々私たちは「ドキリ」とさせられる言葉に出会うことがあります。今日の聖書の箇所もその一つです。3節のところで、朝早く、漁を終えて網を洗っているシモン・ペテロとアンデレに、イエスは「船を出して網をおろして見なさい」と言います。シモン・ペテロとアンデレはプロの漁師です。そのプロに向かって、魚を捕ることに関しては素人のイエスが、プロの漁師に「沖に出て、網をおろして見なさい」と命じたのです。
5節のところで、シモン・ペテロはさすがに、「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろして見ましょう」と言います。ここが、この物語の急所です。このシモンの行いによって、価値の転換、習慣、常識、経験則の壁が突き崩されます。今までの常識を越えた働きが展開されるのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろして見ましょう」というシモンの行いは、「徒労にかけてみる」、「無駄なことにかけて見る」ということに他なりません。常識の枠に閉じこもらない力を信仰は私たちに与えるのです。シモンのイエスへの信頼と信仰が常識の枠を超える決断を導いたと言えるでしょう。
日本基督教団、霊南坂教会の初代牧師であった、小崎弘道は、「輪郭打破、一点突破全面展開」という言葉をよく使っていました。私たちが、物事に行き詰まった時、私たちが、習慣や常識や、様々な決まりにがんじがらめになった時、一点を破ることにより、全体が全て変わる展開が生まれる、ということです。
20世紀のキリスト教の歴史で、最も注目される出来事の一つと言われる、エキュメニカル運動(教会一致運動)が、財政的困難に直面し、「冬の時代」を迎えていると指摘されています。 1948年に開始された、世界教会協議会(WCC)の働きは、「皆が一つになるように」というイエスの祈りに応答して、キリスト者の宣教の領域で、倫理的な活動の領域で、また、聖餐や洗礼という教義の領域で、目に見える一致を求める働きとして展開されてきました。そもそも、多様な文化、伝統、人種を背景とする私たちが一致することは不可能なことかもしれません。エキュメニカル運動は、「徒労にかける」運動なのかもしれません。

キリスト者になるということは、今日の聖書の物語にあるように、イエスの招きに答え、イエスに従って生きることを決意するということですが、それは、私たちに、常識を越えたものとして、迫ってくると言うことが、よくあるのです。それは、海辺の波打ち際に立った自分が、波に押し出されていくのに似てるかもしれません。神様の恵みによって、私たちが、非常識な方向に押し出されてゆくのです。クリスチャンがあまりにも常識的になり、教会があまりにも常識的になり、牧師や信徒があまりに常識的になってしまったら、どこから新しいビジョンが生まれてくるでしょうか。
今日の聖書では、ペテロが網をあげると、おびただしい魚が入り、網が破れそうになった、と書かれています。イエスに従う時、徒労にかける時、その恵みは、網を破るほど豊かなのです。「人間をとる漁師にしてあげよう」というイエスの言葉は、「徒労にかける」ことを苦にせず、イエスに従って生きるということなのです。皆さんも徒労にかけてみてはいかがでしょうか。