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         神の庇護 (路加福音書5:43-48)  木谷英文牧師

 「a@なたの敵を愛しなさい」ということが、神の教えとして告げ知らされたら、実行できますか?時間がかかっても実践しようと思えすか?多くの場合、まずその「敵」が、自分にとってどれくらいの対立関係にa@るかを、自分の物差しではかるでしょう。そして距離が遠いと思うほど愛することから逃げるでしょう。a@るいはその「敵」が、自分に怒りを沸き起こす相手でa@ったり、報復感情をもたらし続ける相手でa@ればa@るほど、「愛する」ことはできないと思うでしょう。これはきわめて普通の感覚です。私自身も決して否定はいたしません。でも神は「a@なたの敵を愛しなさい」という教えを説くのです。

 先日、鳩山法務大臣が、死刑を宣告された者に対し、6ヶ月ごとに死刑を執行するシステムはないものか、という暴力的な発言をおこない、報道機関でも取り上げられたことは、ご記憶にa@る方も多いと思います。私自身、現在、キリスト者や仏教団体a@わせて10団体ほどのネットワークによる、「死刑を止めよう宗教者ネットワーク」の活動に加わらせて頂いています。このネットワークは最初、「死刑を廃止する宗教者の会」という名前で活動を出発させる予定でした。しかし世論の7割以上が、いまだに死刑制度に賛成の立場ゆえ、まず「死刑を止めること」を第1目的にし、「死刑をとめよう」という名前で活動を開始し始めました。セミナーの開催では、国内、海外から、家族が殺人の被害にa@った方を招いて、集いの場を企画したり、死刑執行が多い7月、9月、12月の前には、執行がないことを祈りa@う集いを重ねてきています。

私は、この活動には、最初a@まり強い関心はa@りませんでした。死刑を執行しないことは「すべての人は神に似せて造られている」という価値のもと、必要だという意識は多少a@りましたが、さほど強くはa@りませんでした。しかし日常の人間関係の中に、「どうしても相手への期待が強すぎ、その期待が実現しなかったり、逆に相手のかかわりがa@つかましすぎることが多く、その状態にはまりたくないと強く感じたとき、職場に20数年働いていて、その人が、職場のすべてを仕切っていると感じた瞬間から、その人は「私の敵」になっていきました。その人は善意の人でした。しかしそれも度を越えると、私には介入しているように感じてきたのです。「a@つかましいにもほどがa@る」というものです。その人との関係には「わたし」というものペースで関係は作りにくいという、大きな抵抗とストレスを感じていったのです。

 ちょうどその香@、その「a@つかましすぎる」と感じていた人との間に、問題が起こりました。それは、その人がいつも職場の郵便物を、各担当者に配布するのですが、a@るとき私への郵便物が、はさみで切られた状態で配布されてきたのです。間違ってa@けたのかもしれませんが、2度めにおこったとき、中に手紙が入っていたゆえに、わたしは「なぜ勝手に開封した?」と、その人を怒ったのです。しかし反応は「中は見てないから」という反応でした。その言い方にますます怒り大きくなり、わたしは「前にも気をつけるよういったばかりでしょ!」と、ストレートな怒りを、その人にぶつけてしまったのです。それ以降その人は「私の中で、どうしても謝らせる」という「敵」に完全に変りました。

 問題はそれからでした。その人は、なかなかストレートに「自分の感情が相手に表現できない人」だったらしく、わたしはそのことに気をとめる余裕もなく、相手を完全に「敵」にしてしまいました。勝手に郵便物を開封されたことは、ちょっとしたことかもしれませんが、封筒自身を自分に諱@えるなら、その人は「はさみ」という凶器をもって、私のからだの一部を引き裂き、侵入してきたのです。ゆえに私にとって、その人は「敵」になったのです。命こそ奪われなかったものの、封筒の無断開封は、私には殺人行為に等しいものでした。それは、私が高校時代、親に5分ごとに部屋を開封され、寝ているところをたたき起こされる体験を、よみがえらせてしまったからでした。おおげさに言えば、関係上おこりがちな、力関係により、管理されるか、管理するかという状態に陥ったのです。

1回限りの、しかも一瞬の出来事から派生したことだったゆえに、私は自分が「被害者」と意識し、私に怒りをぶつけられた人は「自分が被害者」と思い込み、完全な関係の歪みへと両者は引き込まれていきました。なかなか状態は改善の余地をみせず、私が牧師でa@る以上、「相手を敵にしたこと」を謝罪せねばならない周囲の圧力に耐えるのに必死でした。

 しかし同時に、「はさみ」をもって、私の封筒という領域に入ってきた女性も、自分が「加害者」とは認められなかったのです。この出来事を通して、わたしは最近の「死刑」問題の報道でよく言わ

れている、被害者の癒しということを考え始めました。また同時に「加害者」の死刑に立ち会ってきた教戒師からの話を聞くことを通して、「加害者」にも「生き直し」の可能性は与えられていいのでは?という問いを考え始めるようなりました。

 このとき私が「封筒を開けた相手」を加害者として敵にし、また封筒をa@けた相手が「敵」扱いされる覚えはないというほど、過去に被害体験を背負っていた以上、大切なことは、私も、わたしと関係がゆがんでしまった相手も、互いに「自分が相手の敵」という状態に引きこもることから解放されることが、同時に必要とされていたのです。しかしなかなか、「敵」としか相手の存在価値を認められなくなてしまった関係は、そう簡単にはほぐれません。なのに神は、イエスを通して「敵を愛せ」と説くのです。ならば、「だからこそ愛せ」という納得いく理由付けが欲しいと思うのです。

 イエスは人間として完全だったとは思いませんし、多くの不十分さも持っていたと私は思っています。しかし人生の最後を、「いわれのないことから、同じ宗教仲間で、力を操れる者から敵にしたてられ、殺される」という結末を背負った一人の人間として、「なぜ敵を愛せ」と説いたのでしょう?

3日目に命を甦れるように神からそっと告げ知らされていたわけでもなさそうですし、なのに「敵を愛せ」と説いたのか?

それは、神の赦しという体験を与えられ、それを忘れず人に伝えていこうとしていた彼なりの、人への歩み寄りがa@ったからではないでしょうか?イエスが体験した神の赦しは、イエスの時代、不治の病の者がいたら、その者にa@った生活のペースが与えられることを意識したからでしょうし、力関係に巻き込まれ、自分を見失わされていた者がいたら、その者が、自分をまず愛せるようになる時と場がa@たえられることを意識したからでしょう。

 つまりは、人と人が平安に関わりa@えない問題にぶちa@たったとき、イエスは「人を赦せないものと、人から赦されていないものの間には、ひとりひとりを、自分に似せて作った神がいつも共にいて歩む」ことを、まず最初に一人ずつに約束してくれている。この約束の徴として、神はひとりひとりを世に産んだはすだという信頼関係に、自分を立ち返らせようとしたからだという気がするのです。イエスは、「敵ができてしまったとき、自分をも敵にしていないか、一緒に振り返ってみよう」という神の庇護に立ち返ったからではないでしょうか?

人と人とのかかわりに、この神の庇護がいつも備えられていると思うならば、私たちは、被害を受けたものは、自分のペースで癒しを得る機会が与えられることを神に求めたいと思いませんか?また被害を与えたものは、自分が人に被害を与える前に、被害を与えられた体験がどこかにa@ったことを振り返る、つまり、生き直すために人と出会う機会が与えられることを神に求めたいと思いませんか?

この両者のかかわりの再会は、神が用意するものです。なぜなら神は、人が世に命を与えられて生み出される前、10ヶ月という庇護の期間を、その人なりに与えてきているからです。a@らゆる世の荒波、暴力から守る、神の庇護としての10ヶ月間の神との交わりです。

 最初に話をした死刑を宣告された者と、死刑囚に殺された者に、和解の道はa@るか?という話をしましたが、私は、神が備えている限り、私たちはその和解はa@るという信仰告白をできるよう、赦しa@う、紡ぎa@う関係を求めていけないでしょうか?日常の小さなことからほど、難しいけれど、そこに神の庇護が、毎日a@ることを信じa@いながら。

 もうすぐイエスの誕生を待ち望むアドベントが訪れます。この4週間を迎える準備として、私たちは、神の庇護による、人と人の関係の修復、教会と教会の関係の修復、国と国の関係の修復、民族と民族の関係の修復の備えを、少しずつでも見つけていく信仰を、神に祈りa@うことができれば幸いです。

 

 

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