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泉に佇むハガル
(創世記16:1-16) 上田博子牧師
本日はまた、この様に東京台湾教会にお招きいただき、感謝いたします。 昨年十一月八日から三日間、台湾の高雄で台湾基督長老教会と日本基督教団との第十一回教会協議会が開催されました。 こちらの教会の李孟哲牧師もご参加くださいました。 また、この協議会の果実の一つ、青年交流プログラムも昨年の夏に台湾であり、教団から七名の青年を派遣しました。こちらの教会から青年をお送りくださり、感謝しております。すばらしいプログラムであったと伺っております。今年の夏は再び日本でこの青年交流がもたれる予定です。 教会協議会は高雄での開催で、台北とはまた違った台湾を学ぶことができました。台湾の方々の台湾人としてのアイデンテティが確固たるものであることをひしひしと感じました。 また、高雄の郊外、排湾族の三地門教会をお訪ねし、原住民の方々のアイデンテティの確かさを学びました。アイデンテティについていろいろ考えさせられる時が与えられたという思いです。 本日は苦難の中で、神に顧みられたひとりの女奴隷が、アイデンテティを見出した物語を共に学んでまいりたいと思います。 創世記第十六章ではアブラハムはアブラム、サラはサライと呼ばれています。 アブラムはハランを出発してまだ神との契約による割礼を受けていません。 しかしながら神はアブラムをすでに祝福して わたしはあなたの子孫にこの地を与えます という約束をしてくださっていました。 創世記第十五章では、子どもが与えられないでいるアブラムに神は あなたの身から出た者が後継ぎとなるべきだ と語っています。 そして、アブラムを外に連れ出し、神は、 天を仰いで星を数えることができるなら数えて見なさい あなたの子孫はあのようになるでしょう と重ねて約束してくださっています。 アブラムは主を信じた 主はこれを彼の義と認められた と十五章六節には有名な信仰承認が描かれています。 まだ受け継ぐべき子が与えられていないのに、普通ではとても信じられないような状態にあったにもかかわらず、アブラムは主を信じた、はずでした。 主を信じたアブラムが妻サライと伴に犯してしまった取り返しようの無い不信仰な事件、それが創世記第十六章です。 アブラムの妻サライには子どもが生まれなかった 十六章はこの重苦しいことばで始まっています。 すでに十一章三節に サライは、不妊の女で、子どもが出来なかった とありますので、アブラムとサライにとってこがないというのは長い間の苦悩であったことがわかります。 続いて、 彼女にはハガルというエジプト人の女奴隷がいた このことからこの乱れてすさんだ物語は始まります。 六節まで物語りはまず起こるべくして起こっていきます。 物語をたどっていきますと、まあたぶんこんな風になるだろうと思った、とか、なるべくしてなってしまった、という思いを抱いてしまいます。 サライは当時の習わしに従って不妊の悩みを解決しようとします。 女奴隷は、たとえ主人の子を授かったとしても自分自身に授かるわけではありませんでした。 女奴隷の身分というのは、まさにこういうものでありますが、授かった子どもはサライの誉れ、栄え、誇りとなるのです。 ここでは律法に反したことが行われているわけでもありません。 サライ自身が夫アブラムのもとに若い女性を連れて行くわけですし、ハガルの方もアブラムのそばにはべるとしても、身代わりとしてそうするのだということは十分心得ていました。 ところが、ハガルが孕みますと、事態は悪いほうへと転がってしまいます。 ハガルは単なる女奴隷ではなくなってしまいました。 サライは金銭でハガルを自由にすることは出来なくなったばかりか、ハガルから見下げられてしまうことにまでなります。 ハガルは形として隷属してはいるのですが、それよりも自分自身に隷属する者となってしまっています。 母になる日が近づいてくるに従って、幸せのあまりハガルはおごり高ぶるようになり、ついに女主人を見下すまでになってしまっています。 ここで女の誇りと誇りが激しい火花を散らす事になります。 美しい女主人サライと若くて身ごもることの出来たハガル。 サライはハガルの懐妊を複雑な思いの中で喜びながら、しかしハガルの変化には耐えることが出来ませんでした。 サライとすればアブラムにハガルを与えたことは切羽詰った挙句のものであっただけに、自分の置かれている立場の変化に対応し得なかったものと思われます。 サライは女奴隷によって子を得る正当な手段をとったのに、自分の地位が危うくされているとアブラムに訴え出ます。 アブラムはサライの訴えを聞き入れまして、 あなたの女奴隷はあなたのものだ 好きなようにするがいい と答えるのです。 アブラムは一度側女としたハガルをサライのもとに戻し、サライのものとすることを許したのです。 アブラムは結果としてサライに味方し、ハガルを見捨てることになってしまいます。 ハガルを取り戻したサライは、彼女を苦しめます。 苦しめる、サライがハガルにどのように接したか明らかではありませんが、ここの苦しめるという言葉は、自尊心を傷つける、虐待する、悩ます、という意味もあります。 いずれにしてもサライは自分がハガルの主人であるということを、いやというほど思い知らせるようなことをしたに違いありません。 つかえ女であるという身の程を思い知らされ、自尊心を傷つけられ、卑しめられて苦しみ、ついにハガルは逃げ出していきます。 この三人の登場人物、アブラム、サライ、ハガルはこういう具合に運命の輪の中に置かれていきます。 ここで起こっている事でもともと悪意から発したような事は何一つ無いのですが、起こっていることはどれもすべて暗く、重苦しいことばかりです。 誰も良かれと思ってしたことばかりであったのですけれども、結末はどうしようもない重苦しいものになってしまっています。 ハガルは故郷のエジプトに向かって逃げていきました。 別にあてはなかったのでありましょうけれど、ハガルは他に進んでいくところはまったく思い浮かばなかったのでしょう。 ハガルが通ったシェルの道は、ベエルシバからシナイ半島に、さらにエジプトにまで至る通商の重要な幹線道路でした。 しかし、砂漠の道でもあります。 砂漠の中を妊婦がたった一人でかくたるあても無く旅をしている。 これはまさに自殺行為でした。 ハガルはサライのもとにいるくらいだったら、砂漠で死んだほうがましだ、このお腹の子どももろとも死んだほうがましたと思ったのかしれません。 この絶望的な状態にあるハガルに主の使いは会います。 ハガルが出会ったのではなく、主の使いが会ったのです。 主の使いが自ら進んでハガルを砂漠で追いかけ、探し回り見つけた上で語りかけます。 ここに貧しく弱いものを顧みたもう神が登場してきていることに気づかされます。 憐れみに満ち溢れ、弱く貧しいものに祝福を下さる神がハガルを砂漠で追いかけて探し出し、見い出してハガルに語りかけているのであります。 サライの女奴隷ハガルよ 念の入った呼びかけです。ハガル、サライの女奴隷と二重の呼びかけです。 ハガルがアブラムの子を宿しているという事はすっかり忘れてしまったかのように、主の使いはアブラムには全く触れていません。 サライの女奴隷、主の使いのこの呼びかけは、はしためは女主人のものであるという、ハガルが死にたいと思うほど苦しんだあの隷属関係を思い起こさせています。 ハガルが一番思い出したくないことを、主の使いはまず思い起こさせています。 その上で、 あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのが とたずねています。 主の使いはハガルがどこから来たかも、また、このままであったら逃げ出したものの辿るでありましょう道もわかっていました。 わかっていて、わざわざたずねています。 どうしてここに来て、いったいどうやってこれから先生きていくのか そういう調子が主の使いの言葉の中にあります。 女主人サライのもとから逃げているところです。 このハガルの答えには悲痛な思いが込められていました。 しかし同時にハガルは主の使いの呼びかけに、秩序を乱したことに対する非難の調子を読み取っていることが伺えます。 ここでハガルは、何か肯定されて何が否定されるべきなのかという教えが示されていることに気付かされているのです。 ハガルの悲痛な答えに対して主の使いは 女主人の元に帰り、従順に仕えなさい という、まことにハガルにとってはこの上もない屈辱的な命令をしています。 元に戻れ、この命令は、へりくだって仕えよ、という命令です。 へりくだるといっても、ただへりくだるという事ではありません。 サライの女奴隷ハガル、お前は女主人に苦しめられるのを嫌がって逃げ出してきてしまった。 けれどもこれからは自ら身を低くしていきなさい。他から強制されずにみずからへりくだって生きなさい。 そうして身を低くすることによって、お前は砂漠という命の無い世界から謙譲という命あふれる世界に生きるのだ。 主の使いはハガルが自分の生きるべき世界から逃げ出すことを否定しています。 十三節でハガルは自分の語りかけた主の御名を呼んで言った、 あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)です エル・ロイ$_よあなたは私を見てくださった、とハガルは言ったのであります。 ハガルは臆するところ無く、エル・ロイ、と神をほめたたえているのであります。 かっておごった時もあったし、へりくだっていた時もあった。 逃げ出してきた道も、戻っていく不安な道も、今やすべてが神の光の中に照らし出されてハガルの前にあります。 アブラムもサライも人間としてみています。 あるときは好意をもって接してきますが、あるときは敵意を持ち見捨てるという具合に、人間の生の姿でものを見ています。 これに対して、エル・ロイと呼ばれる神はいつも変わらずに生きて、変わらずに貧しいもの、弱いものにまなざしを注いでいます。 サライの女奴隷であったハガルは、神のまなざしを見出して再びサライの女奴隷に戻っていくことが出来ました。 あの死ぬほど苦しんだサライの元に戻る、ハガルにとりまして状況は何一つ変わっているわけではないもとの社会に戻っていったのです。 少なくともハガルはイシュマエルを生み、サラがイサクを生むまでの十三年間アブラムとサライのもとで生活しています。 十三年間ハガルは絶えず変わらず注がれる神のまなざしを片時も忘れることなく生きたのでした。 死んだ方がましだと思ってさ迷った砂漠で、もし神がハガルにマナを降らせて生かしたとしても、それはハガルがハガルとして生きたことにはならなかったと思います。 ハガルは、サライの女奴隷で、その様に生きてこそ、ハガルはハガルとして生きたことになるのです。 神は取るに足らないようなハガルを顧みて、ハガルとして生きるすべ、自らへりくだって使える道を拓いてくださった。 これは神が、社会の中で圧迫され苦しめられているすべての人に道を拓いて示してくださっているということでもあります。 死んでしまったほうがまだましだ、と思いながら砂漠をさ迷う魂を神は追いかけ、探し出して、語りかけるのであります。 そして、元の社会の中で生きよ、砂漠で死んでしまってはダメだ、命の世界、自らへりくだって仕える世界の中で生きよ。 主である私が見守って、その世界を拓いているのだ、と力強く語りかけてくださっています。 泉のほとりでたたずんでいた、サライの女奴隷ハガルは、サライの女奴隷ハガルとしての新しい命を与えられたのです。 このハガルへの慰めと励ましに並び得るものがこの世の中にあるでしょうか。 この大きな慰めと励ましを持って、神は今日も私たち一人一人に語りかけ、生きる道を拓いて示していてくださいます。 サライの女奴隷ハガルよ、戻って生きなさい。
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